長崎市の中心街にある洋菓子店『パティスリー・カミーユ』のオーナーシェフを務めるフランス料理界の重鎮、上柿元勝さん。昭和25年に鹿児島で生まれた上柿元さんは、昭和49年に渡仏し、パリとジュネーヴの『ル・デュック』、リヨンの『アラン・シャペル』、ヴァランスの『ピック』で修行した後、昭和56年に『神戸ポートピアホテル』の『アラン・シャペル』オープンの為に帰国。10年間グランシェフを務めた後、平成3年より『ハウステンボス』内5つのホテルの総料理長、及び『ホテルヨーロッパ』の総支配人、ホテル本部の名誉総料理長を歴任。天皇皇后両陛下を始め、モナコ公国、オランダ王子など国内外のVIPの晩餐も担当するなど、日本のホテルガストロノミーの第一人者として数多くの料理人に影響を与えている。
「子どもの頃の夢はプロ野球選手になることでしたが、中学で肘を壊したことで断念しました。その後、白いトレパンに憧れて体育の先生になろうと思っていたのですが、それがいつのまにか同じ白い制服を着た料理人となっているのですから面白いですよね」。上柿元さんは18歳まで鹿児島で過ごし、集団就職列車で大阪へ。そこで一流食品関連企業に就職するが、数年後、通勤列車の吊看板に描かれた調理学校のコピー『フランス留学』という言葉に興味を抱き退社を決意。昼は調理学校で勉強、深夜はアルバイトに明け暮れながらフランス留学を夢見ていたという。
「会社が一流でも自分が一流でなければ意味がないと、フランス留学の言葉に誘われて調理学校の門を叩いたのですが、誰でも簡単に留学できる程、甘いモノではありませんでした。結局、学校ではその夢が叶わず、それなら自分一人の力で留学しようと24歳の時にフランスへと旅立ちました」。そうして念願のフランスへと渡った上柿元さんは、ビザが切れる直前に『薩摩焼』の壺が飾られていたことが縁で名店『ル・デュック』に拾われたという。
「彼らは私が薩摩焼の窯元の息子だと勘違いしてくれたようです。そうしてフランスで栄養失調寸前だった私を拾ってくれたオーナーに、とにかく恩返しをしようと頑張りました。当時はスタッフによる人種差別など様々な嫌がらせもありましたが、その悪口をメモしてフランス語を覚えたんですよ。私の実家は農家でしたが、両親から一度も『しんどい』という言葉を聞いたことがありませんでした。そんな両親の姿を見ていたからこそ、厳しい修行に耐えることができたのかも知れませんね」。そのフランス修業時代には、同じく修行に訪れていた東京四ツ谷の『オテル・ドゥ・ミクニ』のオーナーシェフ三國清三さんと、レマン湖の畔で『日本のフランス料理を変えよう』と誓い合ったという上柿元さん。その志は2人が師と仰ぐ、フランスのヌーヴェル・キュイジーヌの旗頭であり、『厨房のダ・ビンチ』『フランス料理界の巨星』『料理界の哲学者』と呼ばれた感性の料理人アラン・シャペルとの出会いによって、確固たるモノへと変化していったという。
「シャペルは私に地産地消の大切さを教えてくれた最初の人でした。彼はスタッフに話しかけない厳しい人でしたが、私が今、技法はフランス料理のモノでありながら、食材は日本、九州、そして長崎と地元のモノにこだわる理由は、すべてシャペルの教えです。食べることは生きることです。食べ物が血となり肉となり人をつくっていく訳ですから、そんな食べ物を一生懸命つくっている生産者を、そして第一次産業を元気に豊かにしていくことも料理人の立派な務めなんですよね」。そうして上柿元さんは帰国後、フランス以外では初の支店となる『神戸ポートピアホテル』にオープンした『アラン・シャペル』のグランシェフとして彼の精神を日本に根付かせることに尽力。またハウステンボス時代には世界的フランス料理コンクールで4人の日本チャンピオンを育てるなど、かつて三國清三さんと共に誓い合った『日本のフランス料理を変えよう』という想いを実現する。
「私たち料理人というのは、お菓子もそうですが地球の産物を頂く仕事ですから、やはり地球環境も考えないといけません。そうすると食べる人の健康の為はもちろんですが、土を汚さない為にも無添加の食材を使う、川や海を汚さない為に洗剤を流さないなど、そういうことまで考えて仕事をしなければいけません。私は今『オフィス・カミーユ』という会社の社長を務めていますが、肩書は『料理人』のままです。料理人の『料』は自然の恵みです。そして『理』は理論です。ですから『料理人』というのは、生産者を含めて自然の恵みを大事に、科学的な根拠をもって手を施す人という意味なんですよ。私たち『料理人』は、そういう意味をキチンと分かった上で仕事をしなければならないと思います」。『料理人』という言葉の本当の意味を知るが故に、その真髄は奥深いと、あのアラン・デュカスからも尊敬の眼差しを向けられるシェフでありながら、今も暇をみつけてはフランスへと渡り、星つきレストランを営む料理人のもとで「ムッシュ勘弁してください」と言われながら勉強を重ねていると笑う上柿元さん。また2年前には和食を勉強する為に、京都の老舗日本料理店『菊乃井』の三代目、村田吉弘さんのもとでも修行。「次は中華の脇屋シェフです」と目を輝かせる上柿元さんの『料理人』としての姿勢には、ただただ頭が下がる。
「先日、65歳の誕生日を迎えましたが、まだこれからですね。私は何でも学びたいという意識が強いモノですから、今日、これで良かったと思える日は1日もありません。まだまだ、まだまだです」。そんな上柿元さんはフランス料理のソースのレシピを400種類以上も記した著書『フランス料理のソースのすべて ソース』を発表。その本は世界中の料理人のバイブルとして愛読されているという。
「現在の住所は長崎ですが、やっていることはグローバルに考えようと。自分が何をしていて、自分のランクはどの位置にあるのかということを、常に世界の中で意識して仕事をしていれば、必ず今、自分がやるべきことが見つかると思うんですよね。私は料理人が天職であると。生まれ変わっても料理人になりたいと思う程、この仕事に敬意を払っていますので、これからも勉強あるのみです」。そんな終わりなき料理道を歩む上柿元さんの座右の銘は、まさに生き様そのモノの『人事を尽くして天命を待つ』という言葉だった。
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