匠の蔵~words of meister~の放送

狐狸庵【蕎麦屋 佐賀】 匠:溝部昭さん
2015年04月18日(土)オンエア
唐津市の山奥に佇む小さな集落、山瀬に店を構える蕎麦屋『狐狸庵』の店主、溝部昭さん。平成6年に廃村となり、現在は3世帯5人が住むのみという僻地にありながらも、この店には毎日、全国から大勢の蕎麦通が訪れるという。
「ここはカーナビに登録しても辿り着けないような場所ですからね。訪れる方には手描きの地図で案内をしているんですよ」。長崎県佐世保市に生まれ、高級外車のディーラーを経て、神戸でうどん店を経営。阪神大震災後に客の紹介で山瀬に移り住んだという溝部さん。『狐狸庵』という店名は、その神戸時代から引き継いだモノだという。
「神戸の時は狐狸庵先生と呼ばれた遠藤周作の生家の近くに店を構えていたものですから、そこから取ったの?とよく言われたのですが、実は“きつねうどん”も“たぬきうどん”も美味しい店という想いから付けた名前なんですよ。油揚げの乗ったうどんを関東では“きつね”、関西では“たぬき”と言いますからね。とにかく油揚げをのせたうどんが自慢だということです」。そんな元々はうどん店でありながらも、いまでは蕎麦の名店として『狐狸庵』が名を馳せる理由。それは溝部さんが福井県大野在来種の貴重な蕎麦粉で蕎麦を打っているからだという。
「ある日、私はたまたま店の前で掃除をしていたんですよ。そこに道に迷った婚前旅行中のカップルが現れて、『貧乏旅行なので飯盒が炊ける場所はないか』と聞くものですから、蕎麦を御馳走して、『いまイイ蕎麦粉を探してるんだよね』という話をしたんですよ。すると偶然にもその女性は雑穀に興味があって、大野の在来種の蕎麦粉を扱っているお米屋さんを紹介してくれたんですよね。そこで問い合わせてみると、たまたまその蕎麦粉を卸している京都の老舗の蕎麦屋の二代目が、『もっと安い蕎麦粉に代えたい』と言っていたそうで、運よく手に入れることができたんですよね。本当に偶然の積み重ねで、この蕎麦粉と出会えたという訳です」。その噛めば噛む程、鼻腔をくすぐる強烈な蕎麦の香りと豊かな風味は、山葵を付けるのがもったいないと思わせる程。しかし、そんなまるで昔話のような奇跡の積み重ねによって手に入れた蕎麦を、意外にも溝部さんは“手抜き蕎麦”だと笑う。
「基本は手打ち蕎麦なんですが、延ばすのと切るのは機械に頼んでいますので、私は“手抜き蕎麦”と呼んでいます。何故なら昔から蕎麦は、『一鉢二延し三包丁』、または『包丁三日、延し三月、木鉢三年』と表現される程、大事なのは包丁の技術ではなく、水回しなどの木鉢を使う部分なんですよ。ですから私は大事ではない部分はなるべく手を抜いて、その代わりに必ずお客さんがお見えになって注文を受けてからしか蕎麦を作らない。どんなに忙しくても決して作り置きをしないということを心がけています」。奥様と二人で切り盛りする店で、手をかける部分を間違いたくないと、最高の蕎麦粉で打つ蕎麦を出来る限り美味しい状態で提供することに自らの力を注ぐ溝部さん。そんな溝部さんの信条は、蕎麦を2回に分けて提供するという独特のスタイルにも表れていた。
「私は蕎麦をお皿で提供しているんですが、それは衛生面に配慮してのことなんですよね。また十割蕎麦は劣化が早く、食べ終わる頃には皿の水分で美味しくなくなるモノですから、一人前の蕎麦を2回に分けて提供しているんですよ。ある程度召し上がったところで次を出すと。そうすれば蕎麦の風味を損なわずに最後まで楽しんで頂けますからね」。そんな溝部さんは、現在も神戸時代から仕入れている自慢の油揚げを使った“きつねうどん”や“おいなり”なども提供しているのだが、意外にも蕎麦を褒められるよりもうどんを褒められた方が嬉しいという。
「蕎麦の味というのは、その殆どが蕎麦粉の美味しさによって決まりますので、味や香りは素人であろうと名人であろうと一緒なんですよ。ですから蕎麦を褒められるということは、それを育てた生産農家の方や製粉業者の方が褒められていることだと思うんですよね。それに比べて原料の小麦粉に大きな差がないうどんの場合は、粉を打った人の汗の量を褒められている気持ちになるんですよね」。そのモチモチツルツルの麺も出汁の旨味が溢れる油揚げも、蕎麦の名店、いや蕎麦とうどんの名店と呼ぶに相応しい極上の味。どちらを注文するのか悩ましい。
「私は様とか先生とか呼ばれるのが一番嫌いなんですよ。“先生と呼ばれる程の馬鹿ではなし”ということですね」。どんなに人気となろうとも決して奢ることなく、気取ることもなく、そして、「消費税が上がっていますが、ガソリン代も上がっていますからね。こんな山奥まで来て頂いて値段を上げたらお客さんに申し訳ない」と、値段を変えることもなく、ただひたすらに都会の喧騒とは無縁な集落で、静かに蕎麦とうどんを打ち続ける溝部さん。先生が嫌いなら勝手に仙人と呼ぶのも溝部さんは嫌うだろうか。

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