江戸時代初期に生まれた木綿の織物『小倉織』を現代に甦らせた『遊生染織工房』を主宰する染織作家、築城則子さん。その手から紡がれる『小倉織』の縞模様が織り成す色の組み合わせの妙、凛とした佇まいと潔さをもつ革新的なデザインは、国内外で高く評価されている。
「『小倉織』は経糸が緯糸に比べて極端に多く、丈夫でしなやかではあるのですが、縞以外の模様の展開を許さない特異で武骨な性格をもっています。徳川家康が陣羽織として愛用した遺品にも残されているように、昔から羽織や袴、帯などとして武家の婦女により手機で生産されてきた布で、幕末には維新の志士たちも『小倉織』の袴を愛用するなど大流行したそうです。明治以降も男子学生の夏の制服として、無地でグレーの『小倉織』が重宝されるなど、かつてここ北九州は織物産業が盛んな糸へんの街だったのですが、明治日本の近代化以降、鉄鋼産業の盛んな金へんの街となって、『小倉織』もいつしか幻の布となってしまったんですよね」。築城さんは大学時代、近世演劇文学への関心から訪れた能楽堂で、能装束の美しさに魅了され色の世界へ。染織研究所を経て、久米島や信州で紬などの染織技術を学ぶ中で『小倉織』と運命的な出会いを果たしたという。
「当時、私は北九州出身でありながら『小倉織』のことをまったく知らなかったんですよ。そんな中、骨董展で10cm四方程度の『小倉織』の端切れに出会い、その縦縞の模様をひと目見て、私も織りたいと思ったんですよね。そうして詳しく聞いてみると、これは私の地元の織物なのだと。それからは自分の不勉強を恥じて、一生懸命『小倉織』の復元に取り組みました」。そうして築城さんは1984年、昭和初期に技術の途絶えた『小倉織』を復元させることに成功。さらに新たな魅力を纏った布として甦らせたという。
「私が『小倉織』を復元させるにあたってまず思ったのは、先人へ敬意ですね。これだけ織りにくい織物を守り続け、その経糸の多さから生まれる密度感を大事にした、先人たちの意思を引き継ぎたいと。そして、その中で現代でも用いられる、愛用される『小倉織』にしていく為のデザインを求めないといけないと考えたんですよ。ですからデザインは絶対に変えようと思いました。当時とは時代も違いますし、復元させるのであれば私というフィルターを通したデザインにするべきだと。でも、その地厚で丈夫でありながらなめらかという布の質感、布のクオリティーは絶対に失いたくないと思って『小倉織』の復元に取り組んだんですよね」。一度、途絶えたモノをただ復元しても、また途絶えてしまうと、その手法は受け継ぎながらも、現代に即した布として『小倉織』を甦らせた築城さん。そこには『小倉織』を多くの人々に使ってもらいたいと願う、熱い想いが込められていた。
「『小倉織』は箪笥の肥やしにする布ではなく、使えば使う程、凄くいい感じの感触、風合いになっていく布ですので、何より使って頂けるモノを作りたいと。ですから伝統にがんじがらめになるのではなく、自由度をもたせた表現を大事にしているんですよね。そうして多くの人々に愛されるようになって、縞模様の布といえば『小倉織』という風に言われるようになればいいなと思っています」。そんな築城さんの主宰する『遊生(ゆう)染織工房』の屋号は、平安時代に後白河法皇によって編まれたとされる歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』の中にある『遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ』という歌から名付けたという。
「木綿は『ゆう』と読むことができますし、室町時代の遊ぶは自由の意味で捉えられていたそうですから、この名前が私の目指す『小倉織』には、ぴったりだと思っています」。現在、『井筒屋』の全店舗では、包装紙や紙袋などで、築城さんのデザインした『小倉織』の縞模様が採用されているという。そんな今も進行形の『小倉織』は、これからさらに多くの人の目に触れ続け、北九州が再び糸へんの街に、そして縞模様といえば『小倉織』という、築城さんの夢に近づいていくことだろう。
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