山鹿市の伝統工芸品、「山鹿傘」の火を守り続ける唯一の傘職人「傘屋 崇山」の吉田崇さん。吉田さんは昔ながらの風情ある街並みを残す、山鹿市の山間に軒を構える古民家で、50本もの幾何学的な骨組みと、柔らかな筆の線などが独特の温かみのある番傘、日傘、蛇の目傘、舞踊傘の4種類の「山鹿傘」を生み出している。「山鹿市では、明治中期から山鹿傘の生産が盛んになり、大正4年頃は130戸あまりで生産されるなど、西日本一の和傘の生産地として栄えていたそうです。しかし、戦後は洋傘が普及するなどの生活スタイルの変化から、その技術は途絶えてしまっていたんですよね。僕は知人より山鹿傘の復興の動きがあることを聞き、チャレンジしてみようと思った訳です」。福岡市出身の吉田さんは、日本各地の和傘の産地で技術を習得し、平成17年から、菊池川沿いの地で「山鹿傘」作りをスタート。現在では分業で行われることの多い和傘製作の工程を1人で全てこなすという。「途絶えていた技術を復興させる訳ですから、やはり自分が責任を取れる形で作りたいですからね。まだ昔の人の技術には敵いませんが、僕が修行をしていた時のある人物の言葉に勇気を貰い、今も前に歩み続けることが出来ています」。それは吉田さんが鳥取県の和傘保存会で修行していた頃のこと。「当時、僕が習いたいと思っていた保存会の会長さんが、体調を壊して現場に出てこられなかったんですよ。それで、自分の作った傘を自宅にお持ちしたら、なぜか会長から『アナタは傘を作りなさい』と言われたんですよ。それで1年後、その時に、なぜそんなことを言ってくれたのかを聞きに、もう一度、自宅を訪れたのですが、その日に亡くなられてしまったんですよね。当然、服装も普段着のままだったのですが、身内の方に『失礼ですが、当時の言葉の真意を尋ねにきました』と伝えたら、『こっちにおいで』と裏の作業場へと連れていかれたんですよね。すると、亡くなられた会長が、僕がいつか来ると思って道具を用意していたと言うんですよ。うわ〜と思って、なぜそんなことをしてくれたのか未だに分かりませんが、その時の出来事が、僕の山鹿傘作りの原動力になっているのは間違いないと思います」。吉田さんは結局、なぜ傘を作りなさいと言われたのか、その答えを聞くことはできなかったと言う。なぜの答え...それは、歩み続けることを辞めなかった者でしか、知ることはできない答え。「型破りは型の基本があってこそ。そして、良い傘、悪い傘は僕が決めることではありません。それは買う人が決めることだと思います」。そうして吉田さんは、今も答えを求めて歩み続けている。
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