かつて『弓野焼』の産地として栄えた武雄市弓野で『弓野窯』を主宰する陶芸家、中島宏さん。江戸時代の寛永年間頃に作陶が始まり、主に刷毛目地で松の絵が描かれた甕で知られた『弓野焼』だが、現在は生産が途絶え、その技術は福岡の『小石原焼』や大分の『小鹿田焼』に受け継がれているという。中島さんは昭和44年に、そんな弓野の地に窯を開き、『中島青磁』『中島ブルー』と呼ばれる多様で独創的な美しさを纏った、唯一無二の青磁を生み出す技術を確立。平成21年に青磁の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。
「工房まで続く坂道には、昭和初期まで『弓野焼』の登り窯があったんですよ。この工房のある古民家も、かつては『弓野焼』の窯主の家だったのですが、現在はここに工房を構えるのは私のみとなってしまいました」。中島さんは昭和16年に窯元の家に生まれ、10代で陶芸家である父に師事。28歳で独立する日まで、その父と一緒に数々の窯跡や捨てられた陶器の集積場である『物原(ものはら)』を調べ歩いたという。
「ある日、いつものように窯跡を調査している時に、青や緑に輝く青磁の陶片を拾ったんですよ。僕はその美しさに感動して、『よし青磁の道へ進もう』と心に決めました。父からは、『技術と学問が必要な青磁は難しい。お前には無理だ』と言われましたが、難しいからこそ自分の存在感が出せるのではないかと思ったんですよね」。そうして中島さんは胎土や釉薬の研究を重ね、青磁に関する技術と知識を手探りで追求。しかし追求すればする程、様々な疑問が湧き上がり、ある冬の日に、神奈川県鎌倉市に住む陶芸家で、東洋陶磁研究の第一人者でもある故小山冨士夫氏のもとを訪ねたという。
「小山先生は僕のようなどこの馬の骨か分からんような人間を温かく出迎えてくれて、青磁に関する疑問に丁寧に答えてくれました。そして『青磁こそ焼物の最高峰』と言われたんですよ。確かに現在、国宝に認定されている陶磁器の中で、一番、数が多いのは青磁ですからね。あの時、僕を勇気づけてくれた先生の優しさと、こたつの温もりは今でも忘れられません」。そんな小山氏との出会いにより、さらに青磁の世界に魅了された中島さんは、その後、何度も中国の古窯を訪ね、最高峰とされる宋時代の青磁を学ぶなどしながら、独自の青磁の技術を確立していったという。
「焼物の世界には、窯の中で作品が作家の予期せぬ素晴らしい色や形に変化する『窯変』という言葉があって、これを作家は滅多に生まれるモノではないと、高い値段をつけるようなことがありますが、『窯変』によって偶然に生まれた作品は、正確には失敗作なんですよ。作家の思い通りに仕上げてこそ成功なんですよね。ですから僕は偶然を必然に変えてやろうと。偶然に生まれたモノを何度も再現できるように何百種類も釉薬をつくり窯に入れ、様々なバリエーションを試しながら必然に変えてきたんです。そうして半世紀以上も作陶を続けてきましたが、考えてみると、そのように偶然を必然に変えてきたのが焼物の進化の歴史なんですよね」。偶然に生まれた美しさを偶然のまま終わらせるのはアマチュアで、必然にしてこそプロフェッショナルということだろう。しかし中島さんは、時に『窯変』によって予期せぬ美しさを作品に与えてくれる土や火は、畏敬の念をもつ者にだけに、「この偶然を必然にしてみろと挑発してくる」というから面白い。
「俺は陶芸家だ、作家だなどと大きいことは言えません。本当に自然から土を借り、薪を借りて仕事をしているという謙虚な想いを、作家はもつべきだろうと。そのようなモノや自然を敬う気持ちがないと、人の心を動かす作品は生まれてこないと思っています」。そんな中島さんは、焼物の美の真髄は作家がギリギリのところまで挑戦した、その先にあるという。
「焼物が面白いのは、ギリギリまで挑戦したところに美しさがあるところなんですよ。熟れて枝から落ちる寸前の柿が一番甘いように、焼物の美もそんなギリギリのところにあるんですよね。例えば僕が今まで焼物をやってきて一番難しいと感じるのは、窯の火を止めるタイミングなんですが、これ以上手前で火を止めても、これ以上焼き過ぎても美しい作品に仕上がらないという、丁度良いポイントがあるんですよ。そういう意味で、焼物は料理と似ているかも知れませんね。まず良い材料を選ぶこと、そして煮たり焼いたりする加減を間違えないこと、その2つは共通していると思います」。そんなギリギリの美を追求するが故、無傷で美しい作品は、毎回、1割から2割しか生まれないという中島さん。「もちろん歩留まりの良い失敗しない方法はあるけど、それでは面白くないし、そうして生まれる失敗は、決して無駄ではない」と、リスクを背負った先にある、究極の美を追求する中島さんの作品は、温かみの中にどこかヒリヒリとした美しさを纏い、人を惹きつけていた。
「陶芸家は夢を売るのが仕事だと思うんです。僕ら作家モノの作品は値段が高い訳ですよ。しかし、それを買って下さるということは、人はそこに夢やロマンを抱いて買って下さっていると思うんです。そうであれば作る我々は、そういう皆さんを満足させる為に、やはりギリギリのところまで挑戦をして、どこか他とは違う魅力的な作品を作っていかなくてはならないと。そうでなければお客さんはついてこないし、逃げられてしまいますからね」。「作品も生き方もマンネリズムが一番の敵」と、どんなに優れた作品でも過去のモノを自らの手元に置くことなく、人間国宝に認定されてなお、今も新たな青磁の美の可能性を追求し続ける中島さん。その座右の銘は、まさに生き様そのものの『今』というシンプルな言葉だった。
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